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なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第3章 千利休とは

なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第3章ー千利休とはー

庭石

目次/なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか

※第4章以降は順次公開予定

千利休(せんのりきゅう)は大永2年(1522年)、戦国時代の堺に生まれ、塩魚を扱ったとされる家業を継いだ商人であり、茶人としては安土桃山時代(1568年〜1600年)に活躍しました。
十代の頃、北向道陳(きたむきどうちん)について茶を習いましたが、その素質を見抜いた道陳は、武野紹鷗(たけのじゅうおう)に師事するよう勧めたと言われています。19歳で紹鷗に弟子入りした利休が、千宗易(せんのそうえき)の名で初めて茶会記に現れるのが23歳の時。以後、再びその名が登場するのは50代になってから、ということです。

織田信長の茶頭に

千利休像
画:長谷川等伯 / 書:春屋宗園
Public domain / Source: Wikimedia / Brill.com

茶の湯好きだったと言われる織田信長は、突出した経済力を持つようになった堺を掌握し、茶の湯を政治的に利用しようします。「名物狩り」と称して名物茶道具を買い漁った話や、「茶湯御政道(ちゃゆごせいどう)」という家臣の忠誠心を煽る政策などは有名なようです。

台頭してきた信長に、反発も多かったと言われる商人の中で、いち早く取り入ろうとしたのが今井宗久(いまいそうきゅう)。そして、堺でも特に有力商家として知られ、父から茶の湯を学んだという津田宗及(つだそうぎゅう)。宗久とは共に武野紹鷗に師事し、親交があった利休は、この2人に続いて信長の茶頭(※または茶堂と書いて「さどう」と読み、茶事を取り仕切る責任者のこと)を務めることになります。「宗久」「宗及」「宗易(利休)」の名から、茶の湯の三宗匠(さんそうしょう)と呼ばれました。

絶頂期を迎える秀吉時代

天正10年(1582年)、明智光秀(あけちみつひで)が謀反を起こし、主君の信長を自害へと追いやりました。有名な「本能寺の変」です。備中高松城(岡山県岡山市)の戦いにあった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)はそれを知るや、信長の仇を討つべく、そのわずか11日後には京都まで引き返し(中国大返し)光秀の軍と激突します。この戦いが「山崎の戦い」または「天王山の戦い」と呼ばれています。

これに勝利した秀吉は、信長の遺産を引き継ぐことで後継者としての地位を固めようと、信長時代の茶頭も、ほぼそのまま起用したそうです。そして間もなく、宗久に代わり利休が筆頭茶頭に抜擢されました。
秀吉は、翌年の天正11年(1583年)に大阪城の造営に着手します。そして自身の権威を知らしめる場として茶会を利用し、重要な茶会の大半を利休に任せるようになります。

天正13年(1585年)の、天皇に茶を献じる禁中茶会(きんちゅうちゃかい)において、利休は初めて「利休」の居士号(こじごう)で秀吉を後見しました(※公には居士号を天皇より賜ったとされています)。それまで「宗易(そうえき)」と名乗っていましたが、以後「利休」を用いるようになります。
ここに利休の地位は天下一の宗匠(そうしょう)としてピークを迎え、茶人としてのみならず、秀吉の側近として政権の中枢にまで登りつめました。

しかし、天正19年(1591年)、原因は諸説あるようですが、秀吉に切腹を命じられ、その生涯を閉じることになります。享年70。

三千家の誕生

利休の死後、長男である千道安(せんのどうあん)が、商人としての家業である、本家の堺千家を継ぎました。茶室形式のひとつ「道安囲(どうあんがこい)」として名を残す茶人でもありましたが、茶家としては不遇に終わったと考えられています。現在、三千家として知られる表千家、裏千家、武者小路千家へとつながっていくのは、京千家を興した、利休の後妻・宗恩(そうおん)の連れ子であり娘婿でもある千少庵(せんのしょうあん)の系統です。少庵の子、利休から見て孫にあたる千宗旦(せんのそうたん)の3人の息子たちから三千家が生まれました。

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