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なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第1章 茶の湯とは

なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第1章ー茶の湯とはー

庭石

はじめに

京都のある旧家を撮影する機会をいただきました。ここで写真を紹介できないのが残念ですが、京町家でも大塀造(だいべいづくり)と呼ばれる広いお屋敷には、築80年を超える離れの茶室がありました。茶室を挟んで南北には、手入れの行き届いた庭があり、ちょうど5月ということもあって、目に眩しいくらいの新緑が映えていました。

座敷から水屋を通って、亭主が出入りするための茶道口から茶室に入りました。中は薄暗く、部屋の隅に釜がひとつ置かれていました。北側の庭に面した障子(しょうじ)から入る、柔らかい光に照らされた壁は、やや緑がかった灰色で、恐らく建築当時のままの鄙(ひな)びた質感が味わい深く、部屋を落ち着いた雰囲気にしています。天井は平らではなく、竹を組んだり、薄く削いだような木を編み込んだ、角度と意匠の異なる3つの面で構成されています。
茶室には、現代に合わせて、小さな照明器具が取り付けられていました。昼間でも薄暗い茶室ですが、ご当主からは、電気は点けずに撮影するように言われました。

その昔、武士が茶室に入る際には、刀を外に置かなければならなかった…くらいの知識はありました。しかし、今までちゃんとした茶室にさえ入ったこともなく、もちろん茶道というものは未経験。撮影も初めてのことです。
自分が感じるまま、その場の空気を掴んで帰れば良いのか、記録として説明的な写真を撮るべきなのか、今回は、その中間あたりだったのかもしれません。とりあえず押さえておくべきは茶室内のディテールであり、まずは障子を開けて部屋を明るくするのと同時に、庭も入るように撮影しました。

ところが、この庭が写り込んだ写真をご覧になったご当主から、「茶室の戸は閉めるものだ」とのご指摘を受けました。
なぜだったのか。

刀を茶室に持ち込めなかったという、とても断片的な知識から推測すれば、どんな地位の客人であれ、迎える亭主と人と人として向き合うことができる場とするためとか、世俗から切り離した空間とするためなどの想像はつきました。でも、実際はどうなのか。簡潔で明快な理由とは…

東京に戻ると、ネットはもとより、10年ぶりくらいに図書館に行き、本を借りて調べてみました。しかし、思うような説明は見当たりません。襖(ふすま)や障子を、どのように開け閉めするか、といった作法的なことは容易に見つけることができます。でも「なぜ」となると全く触れられていません。作法という型になる以前に、趣ある美しい庭が、窓や障子から見渡せたとしても、それを眺めるどころか開口部を閉め切り、薄暗くした部屋の中でお茶を飲む意味があったはずです。

答えの見つからぬまま、何冊かの本を斜め読みしていました。お茶の歴史、戦国の世から江戸時代へと移りゆく日本の姿。そして「茶」に思想的な影響を与えた禅。
日本の歴史が激しく動いた時代は、お茶をはじめ日本の文化が花開く時代でもありました。そして誰もが知る人物たちが登場します。日本から海外に渡った禅は、「ZEN」としてアップルの創業者スティーブ・ジョブズをはじめ、海外の企業家にも影響を与えた言います。
どうやら閉ざされた小さな空間の外には、想像より遥かに大きな歴史的バック・ストーリーが広がっているように思えてきました。政治、芸術、宗教という重層的な歴史の中で、簡潔で明快な理由を見つけるのは難しいかもしれませんが、ここからは、茶室の戸を閉めるに至る謎解きを、史実を追いながらしていきたいと思います。

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