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なぜ茶室の戸は閉められなければならなかったのか
第1章 茶の湯とは

茶の湯の歴史

「茶道」と言えば、茶室で、亭主が点(た)てたお茶を、招かれた客が伝統的な礼儀作法に則って(のっとって)いただくこと、というイメージが一般的だと思います。
実際には、礼儀作法というだけでなく芸道として、特に亭主には、深い知識と感性、そして美しい所作、招いた客をもてなし思いやる人間力、コミュニケーション力などなど、様々なものが要求される「道」なのだと想像しています。

この「茶道」という言葉ですが、使われるようになったのは17世紀初頭から(平凡社:世界大百科事典第2版)、とのことなので、ちょうど江戸時代が始まった頃です。それ以前は、「茶の湯(ちゃのゆ)」または「数寄(すき)」とも呼ばれていたそうです。また「茶室」という呼称もこの頃からで、それ以前は「数寄屋」「茶の湯座敷」などと言われていたようです。

ここからは、歴史を遡(さかのぼ)る話になるので、「茶道」よりも「茶の湯」という言葉がよく出てくるようになります。
日本に一粒のお茶の種が伝わってから、この「茶の湯」は、いつ、どのように生まれ確立されていったのか。そして禅との結びつきとは。現代に繋がるストーリーは奈良時代から始まります。

茶会の登場

お茶は、奈良時代または平安時代に、最澄(さいちょう)をはじめとする唐に渡った留学僧が種を持ち帰ったのが始まりと言われています。
お茶の薬効や栽培、製法などを記したのは、鎌倉時代に宋(そう:現在の中国)に渡り、禅宗の宗派の一つ臨済宗(りんざいしゅう)を日本に伝えた栄西(えいさい/ようさい)という僧でした。栄西は、宋の禅寺で抹茶の飲み方を会得したのではないかと考えられているようです。しかし、この時は、お茶を飲む「喫茶」による薬効に関心が置かれていて、禅との運命的な繋がりが既に感じられるものの、その思想とはまだ結びついていませんでした。

各地でお茶の栽培が行われ、嗜好品としてお茶が飲まれるようになった室町時代(南北朝時代1336年〜1392年)には、その栽培地を当てる「闘茶」という賭博的な要素を含む遊びが人気を博したそうです。もう少し時代が下がると、「茶寄り合い」という大勢の人が集まる茶会が催されました。酒や食事も出され、書院造(しょいんづくり)の座敷で庭を眺め、掛軸や花、そして高価な唐物の茶道具といった美術工芸品を鑑賞するなど遊興的な性格が強く「東山風」と呼ばれたそうです。

侘び茶の始まり

禅の思想と茶の湯の精神が融合されていくのは、15世紀後半、奈良の僧と伝えられる村田珠光(むらたしゅこう)から、というのが一般的な説のようです。華やかな「東山風」に対し、簡素な茶室と道具類、そして静かな趣の中で行われる茶の湯を「侘び茶(わびちゃ)」と言い、珠光を侘び茶の祖とする資料をよく目にします。しかし、珠光に関する記録が少なく、その生涯を含めて不確定な要素が多いため、「茶人珠光の存在を証明するものは今のことろ存在しない」とする研究者もおり、残念ながら正確なところは分かりません。少なくとも、それまでの遊興的な茶の湯から侘びた茶へと、茶の湯のスタイルに変化の兆しがあった頃だとは言えそうです。そして、それは、日本が揺れていた時代とも重なります。

堺の商人と茶の湯

応仁の乱(1467年〜1478年)により京都は焼土と化し、室町幕府の権威は失墜、各地の大名が争う戦国時代(1467年〜1573年)へと時は移ります。
その一方、16世紀に入ると、商工業の発展にともない、堺・京都・奈良などでは、町衆を担い手とする、花、歌など、現在、伝統文化と呼んでいるものの多くが生まれたそうです。

Shinnyodō engi, vol.3 (part)
応仁の乱(真正極楽寺所蔵)
掃部助久国 / Kamonnosuke Hisakuni / Public domain / Source: Wikimedia

特に堺(現在の大阪府堺市)は、外国貿易や鉄砲の製造販売などで飛躍的に発展し、町衆の代表たちが市政を運営する自治都市として経済的に豊かになりました。
15世紀の鉄砲の伝来(1453年/天文12年)以来、堺をはじめ、紀州や近江でも鉄砲が作られるようになったそうです。しかし財力を生かして火薬も手に入れられたと言われているのが堺で、全国の戦国大名へ鉄砲とセットで販売したことが、都市の発展を後押しをしたそうです。
その経済的な豊かさが精神的な豊かさを生み、商人たちの教養とステータスの証としての茶の湯、それも華やかな「東山風」ではなく「侘び茶」が広く受け入れられたといいます。

堺の商人たちは、「人里離れた隠遁(いんとん)生活」に憧れがあったようです。しかし、実際に人里離れた隠遁の場を求めたのではありません。都市空間という生活の場に山里の草庵を持ち込み茶室としました。そして、日常の忙しい仕事の合い間をみては、互いに茶に招待しあい、その草庵風の空間で、山里にいるかのような静かな時間を楽しんだようです。これを「市中の山居(しちゅうのさんきょ)」と言っていたそうです。

戦国の世という不安定な時代に、戦禍を激化させる武器を供給し商いとすることで財を築き、その一方で、安息と平穏を求めて「非日常」の空間にこもり茶の湯を楽しむ。そうした趣向が、この時代の商人たちに広まったというのは、皮肉な史実に映ります。

堺市の約30年に及ぶ「堺環濠都市遺跡」発掘調査によれば、地表から約1mから4m下の中世期の層から(と言いますから、鎌倉〜室町時代でしょうか…)、茶室や茶道具蔵を伴う屋敷の遺構や、茶釜、茶碗など茶道具類が多く出土したそうです。それらは、当時流行した豪商たちによる茶の湯の世界を、実際に窺い知ることができる資料となっています。
以下に、堺市の「堺環濠都市遺跡」関連Webサイトを紹介しておきます。

茶の湯の確立

歴史上、最もよく知られた茶人、千利休(せんのりきゅう)が19歳で弟子入りしたのが、革と共に武具を扱う豪商であり茶人でもあった武野紹鷗(たけのじゅうおう)です。紹鷗が活躍したのが、この戦国時代の堺でした。30歳までは連歌師で、後に茶の湯界を「名人」としてリードしました。南宗寺(なんしゅうじ)の僧、大林宗套(だいりんそうとう)に参禅し禅的教養を身につけ、茶道の追及するところは、禅と同一であるとする「茶禅一味」の考え方を体得し、茶の湯の精神とスタイルを確立したと言われています。利休を始めとする紹鷗の弟子たち、そして以後の茶人たちもこれを手本としました。
紹鷗によって確立された「侘び」の茶の湯は、その後、利休によって精神性と芸術性がいっそう高められ成熟期を迎えることになります。

参考文献および参考Webサイト

・別冊太陽「千利休」(2008)平凡社・別冊宝島「千利休」(2013)宝島社・前久夫(2002)「すぐわかる茶室の見かた」東京美術・谷端昭夫「茶道の歴史」(2007)淡交社
・ウィキペディア・ウィキメディア・コトバンク(朝日新聞社、VOYAGE MARKETING)・堺市(堺環濠都市遺跡)

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